ななはち文庫

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短編小説「こころ」ころころ、ろここちゃん

 私の名は神林ロココ。本名である。

親が考えて考えて考えて考えて、
この名前を付けてくれた。

世間は私のことを、俗に「DQNネーム」、と呼ぶ。

価値観を押し付けるな。

私は私の意思でこの名前を肯定しているのだから問題なかろう

親が価値観を押し付けているのではない。
価値観を押し付けている、という価値観に押し付けられて私は生きている。

隣にはKという友人がいる。

勿論、夏目漱石の小説「こころ」に登場するKのようにイニシャルで呼称されているわけではない。

K、という本名なのだ。

倉本K、それが彼女の本名である。


私達が産まれる数年前、世の中には
「ネームブーム」が巻き起こった。

他にはない名前、自分の子供だけの価値観、特殊な生き方、それらを求めた親達は、自分の子供に変わった名前ばかりをつけ続けた。

結果、世の中は変わった名前だらけの世の中になった。

むしろ、普通の名前の方が珍しいくらいだ。

「珍しい」とは一体なんだったのか。

しかし、私もKも、自分の名前を恥じたことは一度もない。

現代は、アートやデザインを求める運動が急速に加速し、それぞれの価値観を過大とも思えるほどに尊重する世の中として出来上がってきている。


だから、芸術的観点からすれば、私の名前「ロココ」も「K」も、なんだか少しアーティスティックで素敵に感じられるのだ。

そういう感性なのだ。

そういう感性として完成されたのだ。


一昔前の概念なんてもう影と形もない。

一旦影を落とした時代はもう。
勢力を取り戻さない。



世の中なんてコロコロ変わる。

世の中なんて、コロコロ変わる。

それが最近の私の、世の中に対する印象である。




――――――――――――――――




Kと私の関係にも、同じようなことが言える。


Kと私は、今でこそ、こうやって、ミスタードーナツで席を並べて歓談する仲に落ち着いて入るものの、数ヶ月前までは、お互いを血で血を洗う戦友の仲、否、殺し合いの仲だった。

敬遠の仲、
否、犬猿の仲、否、虎龍の仲??

上手く例えが見つからない。

しかし、確かに言えるのは、お互いが被害者であり、加害者であり、
オブラートに包むことなく正確に言うなら、

殺人未遂者であり、被殺人者未遂であった。

しかし、そこには私とK以外に、もう一人の存在があった。

それが三条  燦(あき)である。

単純にいえば、私とKと燦の三人による、クラスの覇権の争いあいだった。


中学生のクラスの覇権争いほど恐ろしいことは無い。

被害をどのように敵に与えるか、それを自由に考えて、突拍子もなく実行する。

突飛で、沸騰的で、計画性が乏しいのだから、なおさら恐ろしい。

後先考えず、将来を顧みず、「殺人」なんていう手段を思いついて実行しようとするのだから、比喩ではなく、死ぬほど恐ろしい。

私とKは、その中でも特別に仲が悪かった。

しかし、戦場の仲で、そのいがみ合いは五十歩百歩のようなものだ。

私は、Kにも、燦にも、だいたい同じように百手を尽くしてあらゆる面で攻撃を行ってきた。そこに怠りや容赦はなかった。


この三国志は長くにわたって続くかと思われた。


しかし、ある日の晩。

燦は自殺して死んでしまったのだ。

思い返してみれば、あの日の前夜、私がいつもと違う方向に枕を置いていたのもなにかの因果かもしれない。

燦の机には遺書が遺されていたらしい。

簡単に言うと、
「私は将来、このままだと到底生きていくことが出来ないのだろうから、ここで死ぬ。」とのことだった。

どうしてもっと早く死ぬことが出来なかった、とか、遺体の処理の方法までは、流石に「こころ」のKのようには書いていてくれなかった。
流石にまだ中学生なのだから、そこまで考えることが出来なかったのは自然と考えるのが妥当だろう。

流石に考えて考えてあの文書を遺したのだったら、私も私としてがっかりだ。

私も、Kも、そこまで気に病むわけでは無かった。

もともと、ストレスに弱い体質ではない。

だからこそ、ここまで虐め合い、というか、クラス戦争を続けることが出来たのだった。


私達が殺したという説も持ち上がったが、すぐにそれは否定された。

学校側は社会的に「いじめ」より「自殺」として、処理したかったらしく、その通りに社会は動いた。

全く都合のいい社会だ。

それに、決め手となったのは、燦の遺書だ。あそこには、私達が殺した、もしくは、虐めた、という事実は一切書かれていなかった。物的証拠も何も無い。

あの遺書には「社会的に私達を抹殺する」ことすら書いてなかった。彼女の死について、その事実だけが私達にとっては大事だった。

「社会的」ということがこの場合、結構重要だったからである。

私達のクラスの覇権争いは、念に念を入れた形で、水面下で滔々と進行していた。

社会的にまずい場所には漏れていない。
そして、お互いに一滴も戦争の匂いを漏らさないことを暗黙の了解としていた。


だから、燦が死んだ後も、私とKの間に、戦争をやめざるを得ない、という状況は何も無かった。


けれど、私達は、戦争をやめた。


興醒めしたのだ。


なんだか、敵も自殺してしまったし、お互い半分半分くらいにクラスを支配しようか。


そんな流れになった。

別に、魔王に世界を半分やる、とかそういう上から目線の交渉をどちらかが持ちかけたわけでもなくて、

なんだか、自然と、そうなった。




そうなってからは、翌日から。

まるで昨日までのことが嘘のように私達は仲良しになった。


これが時の流れというものなのだ。

私はその時悟った。

こういう一日一日の変化が、積み重なって、積み重なって
それはもう積分みたいに積み重なって、時代の変化はいつの間にか、
気づかぬ間に、
私達に、訪れていて、
私達を、変えているんだろうなぁ。


その時、そう感じた。


率直に。愚直かもしれないが、純粋に。


ただはっきりと。

まるで悟ったかのような心境だった。


悟ったのだ。


人のこころって、こんなに移り変わりやすいんだ。よく勉強になった。

そう過去のことを考察しながら、
オールドファッションをほおばる。


Kは、ゆったりとコーヒーを口に運ぶ。


あの時の、Kに対する殺意、怨恨、ライバル心、葛藤、警戒、不安、怒り、
それらはもうどこにもぶつけようがない。

今でこそ、親友だ。
しかし、元は敵だ。

昨日の敵は今日の友。

これもまた都合のいい言葉だ。


まるで社会みたい。

もし私が、今彼女に殺意を抱いても、それはそれで「時代の流れ」なのだろうか?

今、目の前で、Kに、突然目潰しをしかけたら、一体どうなるんだろう。


これも、コロコロ変わる、こころの一環なのだろうか?




コロコロこころ、こころコロコロ。
殺、殺、こころ。こころ殺、殺。


「時の流れ」だから、多分許されるよね。





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「こころ」ころころ、ろここちゃん

              〜終〜