日本の道徳って
日本の道徳について。
丁度さっき、駅前を歩いていたら、スラブ系の女性に声をかけられた。どうやら、募金のお願いらしい。たどたどしく英語を交えると、僕の手はいつの間にか、彼女の手に500円玉を手渡していた。
募金をし終え、その場を立ち去った後に、さっきまでの一連の動作の自然さと不自然さにハッとさせられるものがあった。
刷り込まれたように、僕は募金を済ませた。実情を言ってしまえば、殆どは感情でなく、義務感でだ。「こういうケースにはこうするべきだ」、そういった経験則からの速やかな行動であった。
その流れは、おそらくとても自然だったと思う。
でも、ちょっと時間をおいて、よく考えたら、それがとても不自然だということに気がついてしまった。
なんで自分は、疑いもせず募金をしたんだろう。実は、「嫌です」と拒否する選択肢も存在していたというのに。あたかも、「募金するしかない」という現状であったかのように、僕はそれを正しいと判断し、実行していた。
そうした社会規範のようなものに完全に則って生きることが本当に「正しい」と言えるのだろうか?と僕は自問した。
そして、その判断のルーツが、僕が小学生の時に受けたであろう「道徳の授業」にあるのではないか、という所にまで思い至った。
そういった了見で、今回は自分が「日本の道徳」について自由に思ったことを書いていこうと思う。
あくまで、自分の意見なので、押し付けるつもりは無いことを、予め断っておく。
さて、始めたい。
長くなるかもしれないから、まず初めに「日本の道徳」について、自分の伝えたい第一のメッセージを「イメージ」としてまとめておく。
僕は「日本の道徳」に対する、独特なイメージを持っている。
日本の道徳は、“”自動販売機で売ってる味噌汁 “”みたいな感じだ。
…よくわからないと思うから、詳しく説明したい。
触れようと思えば触れられる環境がそこら中にあるのにも関わらず、わざわざ人様の手で人工的に「道徳」要素を作ってそれを学んでいる。
「道徳の教科書」がそれに当たる。
人工的に作った味っていうのは、味噌汁にしたって、なんだかぎこちない。
人の手で頑張って、出来るだけ自然に作ろうとしたものなんだろうけど。
それでもやっぱり、「自然になるように作ろう」とさえ思わず、本当の意味で「自然に」やったものしか本物にはなれない。
それが、母さんの作った味噌汁と、自動販売機で売ってる味噌汁の違いだ。
これが、僕からすれば、「道徳」にも同じことが言えてしまう。
子供が、日常生活の中で、友達と喧嘩して、「仲直りが必要だ」って経験から学ぶこと。
それと、道徳の教科書で偉い大人が「仲直りは必要だ」って巧妙な物語を使って子供に押し付けるのとではえらい違いだ。
教科書は、子供に経験を与えてくれない。だから、本物の感情っていうものも与えてくれない。
せいぜい子供に与えてくれるのは、「世の中はそういうことを求めてるのか」っていう「理解」であって、「感情」ではない。主体が自分ではないのだから、「感情」があったとしても、それは「同情」だし、学べるとしても、「社会」の常識だけ。
言い換えれば、社会のルールの「知識」だけだ。
自分の頭で、経験を体得することは出来ない。そこに本物の「教訓」はない。
自分が何を思ったかじゃない。道徳の授業なんて、「この物語を読んで、思ったことを自由に書きなさい」とか言ったって、結局は狙ってる感想の定型文に近づくように授業を組み立ててる。
こぶとりじいさんのお話で、「正直じいさんはハッピーエンドで、意地悪じいさんはバットエンド。同じじいさんなのに、正直じいさんだけが報われるのはおかしい!」なんていう感想を持ったら、おかしく思われるのが、道徳の授業の現状だ。
この話を用いることで、社会は「日頃の行いが良いものは救われて、悪いものは懲らしめられる」という、勧善懲悪の精神を子供に刷り込むことが可能だ。
なんだか、こうやって、考え方を揃えようとするのは、僕は嫌いだ。
長くなってしまったので、長文を読むのが苦手な方の為に、ここで総括するとすれば、僕が道徳の授業に言いたいことはこの二つだ。
「本物の道徳は教科書にはない!」
「教科書で考え方を揃えようとするのはやめて欲しい!」
以上だ。