ななはち文庫

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小説「間違いたい人」

「アニメなんてくだらん。お前は普通に進学するべきだ。えぇ、いや、せねばならない。」
――――まるで担任が世界を代表して僕を批難しているようだった。
客観的に見ればこの表現は大袈裟に見えるかもしれない。
しかし、当事者の僕にとっては、なんて等身大の表現だろう!と寧ろ自身の表現に感嘆の念さえ抱いていた。
その結果に付随して、僕は、僕自身が、世界というものに拒否されている感覚を鮮明に覚えたのだった。

センター試験前最後の三者面談があったこの日、僕は僕なりに自分が進もうとしている進路を否定しようとしていた。

僕は、単純に単純に、それはもう純粋無垢に、アニメやゲーム、漫画が好きだった。

一般的だ。なんらおかしくはない。クラスの自己紹介でも、卒業文集の自分のページの「趣味欄」にも「アニメ」「漫画」「ゲーム」を書いておけば、全く差支えがない。一週回って、なんの面白みもないくらいだ。

クラスの大半が納得している、マジョリティの意見だ。

しかし、そのマジョリティは、「進路」というものには影響力を持ってはくれない。

アニメやゲームが好きだからといって、普通、その道には進まない。普通に経済学部とか、理学部とか、それこそ「差し障りのない」教科に行って、趣味としてアニメやゲームを楽しむ。

アニメやゲームの世界に進むのは、根っからのアニオタ、若しくは、それしか能がない奴、若しくは、現実を見据えないゲームバカ、ゲーム脳、その程度に思われるからだ。
と、思っているからだ。

「真面目な道」、安定した道を選ぶにあたって、そこにはゲーム学部とか、そういった「ふざけた」選択肢はない。
と、思われているからだ。

確かに、そうかもしれない。
ゲーム学部に入るなんて、よっぽどゲームに侵されていないと出来ない。
ゲームがなければ生きていけない。そんな人達が集まる学部だと僕も思っていた。

ただ、「彼」に出会うまでは。

「彼」に出会うまでは、ゲームやアニメやゲーム、そんな道に職業として進むのは、甘えであり、「ふざけた」選択肢の1つであると考えていた自分がいた。

「ふざけるな」

そんな思いを、今の僕はかつての僕に抱く。
「彼」の考え方は、至極ふざけていながらも、世界の真理を悉く貫いていて、説得力を正確に捉えることは出来ないものの、その芯に含まれた確かな論理構築は、僕の生涯的理論を鮮やかに打ち砕いていった。

僕を崩壊させた「彼」をAとおく。

Aは、学年一位の秀才、スポーツ万能、生徒会長も務める一期上の部活の先輩だった。

正直、何人もの才能を一緒くたに掻き集めたようなAの才能には嫉妬も充分にしたし、嫌味も十二分に零した。

Aは、こともなげに謙虚でいながらも、畏まった性格ではなく、誰から皮肉を言われても闊達に微笑んでおり、居丈高な発言もなければ能力を誇示することも、自嘲や屈託をして卑屈になることも、
かといって老成していて関わりずらいと言うわけでもない、ある種において周囲を圧巻している人物であった。

ここまで表現を重ねても、彼の性格及び雰囲気を正確に伝えることは出来ない。

名状し難いとはまさにこの歯痒さに極まれりということで間違いは無いのだが、
とにかく、彼が生半可な人物ではないことはわかっていただけただろう。

そんなAが進学した先の噂を今年の春に聞いた。

「デザイン専門学校」という部類にカテゴライズされる学校だ。

あれ?どうして?大学じゃないの?しかも、四年制とかそういう問題じゃなくて、専門?デザイン?え?絵がうまかったっけ?A先輩?え?は?どうゆうこと?

少し「軽蔑」に近い念を持った私の感情は、Aに進学の理由を聞く図々しさを与え、著しい行動力を生んだ。

単純に、予想外中の予想外だったので、「なぜ」を判明させたかったのだ。

それだけの理由だったのに、この行動が、僕の未来を大きく、著しく大きく変えることになったのだった。

ここからの自分の行動はあまりにも図々しすぎるので、出来るだけカットするとして、僕はAと会った。

そして、会話を三時間ほどした。

その情景及び状況、その内容に関しては、実はあまり重要でないのかもしれない。というと嘘になるかもしれない。というのも、話せば長くなるし、語れば不遜のようになるし、振り返れば感傷に浸っているかのように自分が映るからだ。

だから当時の会話の内容は「シークレット」ということにしておこう。

そのシークレットを通過した僕は、三時間で別人のような心持ちになっていた。

まるで、人生を変える映画を見終えて尚、まだ自分が映画を見続けているような満足の上限に達しない、現在進行形の満足感と、
先輩の語りから得たものを反芻する行為だけが、先輩との別離との後、何時間か、ただただリフレインしていた。

生まれ変わった僕は、担任に進路を告げる決意をした。

――――――――――――
(三者面談中)

確かに僕は、そこまでアニメやゲームが好きじゃない。多分、「本当に好き」という人達、ゲームやアニメに何十万円も注ぎ込む人たちに比べれば、まだまだだ。

でも、好きだ。

人生は、誰のためにある?

好きなことをしなくてどうする。
いや、どうしようもない。

そんな月並みの「人生のあり方」だけれども、先輩は、それが真理であることを体現していたのだった。

安定した人生の先にある安定した人生。

安定には努力が伴うから、人は努力をして、苦労して苦労して、ちゃんとした安定を獲得する。

その経過で、「努力した」という、自己を正当化されうる要因があるからこそ、自身の人生がより正当なものだと確信して日々を過ごすことが出来る。

そういう人達が普通だ。そして、間違っていない。

間違っていない。

ここが重要だ。
間違っていなければ、正しいからだ。

でも僕は違った。

違ったのであった。

多分、僕はそこに抗いたい人だったのだろう。生まれつきの傾向として、Aと同じく、間違いたい人だったのだろう。

特別に、Aの話の一部をここで紹介しよう。

Aによれば、「間違いたい人」は、世界に一定数いるという。
そして、間違いたい人は、minorだが、間違いたい人がいなければ、世界は形を為さず、崩壊するという。

もし、自分が「間違いたい人」だという自覚を持ってしまったら、もう、そうやって生きていくしかない。
それは生まれ持った「傾向」なのだ。抗ったとしても、抗ったその行為すらもその「傾向」の一部なのだ。

人は傾向から逃げられない。

誰一人として。



それが、今回の事例に引用できるAのお話の一部だ。



僕は、

「…宅の息子さんはですねぇ。とても成績優秀で、このまま勉強を続けていれば、間違いなく国立大学には行けると思うんですよ、ええ。でも、ちょっと…。そのデザイン専門学校とかっていうのは、なんですけどねぇ。将来不安ですよ。えぇ。就職先もよくわからないですし、



…僕は、



親御さんとしてもどうですか?ねぇ。えぇ、いや、まぁ覚くんの意見を聞くってのも大事なんですけどね、ちゃんと行くべき先っていうものもある。
行きたい道じゃなくて、行かねばならぬ道、そういうものもある。

僕は、

はっきり言いますけどね。アニメなんてくだらん。お前は普通に進学するべきだ。えぇ、いや、せねばならない。


僕は、


その為にもこちらでもヤハリ『正しい』選択肢をですね、いくつか提示していかな」


…間違った人だ

「え?」

「僕は、間違った人だ。」

「はい?」

「多分、先生や母さんは反対するんだろうけど、僕は僕なりに頑張ってみたい。あと少ししか時間はないけど、それまでにきっと先生や母さんを納得させるだけの技術や論理を組み立てようと思うから、どうかそれまで待っていてください。」


我ながら、アホだ。滔々と流れ出るその言葉に、なんの説得力もなかった。

先生の経験値からして、そんな話は突発的で生半可だったことなどお見通しだっただろう。


なだめすかされることもなく、嘘だったように、その話は流れ、その日はとにかく勉強の質を落とさないように最後まで頑張ろうという「オチ」になった。


――――――――――――

そして、センター前日。

僕の胸の中には、予想外の冷静さがあり、これがセンター前日の緊張感か、全然大したことないな、と、見当はずれな思惑を渦まかせていた。

本当なら勉強しなければならないのに、
明日の結果で全てが決まるというのに、

その結果を淡々と明日の僕に任せている。

ただ、間違いたい人として、間違いたい人生を、間違いなく歩んでいることだけは確かだ。

もしかしたら、みんな、間違っているのかもしれない。

今の僕のように、世界に自分の行先を捻じ曲げられて、理想道理ではない、「間違った道」を選んでいるのかもしれない。

いや、きっとそうだ。し、みんなそうだ。

だから、間違っても、間違っても、間違っても、間違っても、間違っても。

間違いなく自分の道を歩みたいと思ってしまう。

価値観でもなく、マジョリティでもなく、そう、「傾向」として。

周りが間違えさせるなら、逆に自分から間違ってやるまでさ。

…夜明けは近い。

先生の「オチ」道理にはさせない。
間違えてやる。

間違いなく。


――――――――――――――――

「間違いたい人」    終